アウフヘーベン
まだ消化しきれていない怒りが私の中にある
どんなに自分に言い聞かせたって、
怒りたい時は怒りたい
悲しい時は悲しい
落ち込む時は落ち込む、のだ
変われと言ったって、
変われと言われたって、
今はそうしたいんだから仕方ない
でも変化の中を生きている
心は明日も同じ模様か分からない
明日には明日の風が吹き、
今日には今日の風が吹く
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
まだ消化しきれていない怒りが私の中にある
どんなに自分に言い聞かせたって、
怒りたい時は怒りたい
悲しい時は悲しい
落ち込む時は落ち込む、のだ
変われと言ったって、
変われと言われたって、
今はそうしたいんだから仕方ない
でも変化の中を生きている
心は明日も同じ模様か分からない
明日には明日の風が吹き、
今日には今日の風が吹く
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
昨日、『降りてゆく生き方』という映画を観てきました。
武田鉄也さんが主演で、映画館で上映されていない映画です。
DVD化も、テレビ放映も一切しないそうです。
原作のないこの映画の物語は、『奇跡のりんご』でおなじみの木村秋則さんをはじめ、日本で“降りてゆく”生き方をなさっている方達へのインタビューを重ね、それをもとに作られた作品だそうです。
私は木村さんの大ファン。うちのお母さんもそう。
木村さんと木村さんのりんごの話を初めて知ったのは、私がまだ大学生の時、今から10年くらい前になります。母が病気で手術をしたのがきっかけで、自然食や環境問題に興味を示し始めた頃でした。私が初めて読んだ木村さんについての記事は、環境gooのサイトに載っているものだったのですが、木村さんの“腐らないりんご”のお話は、当時の私にはそれはそれは衝撃的で・・・。私の心は木村さんのりんごのお話に、ズキューンと射抜かれてしまったのでした。
そんな木村さんファンの私は、去年の夏、この『降りてゆく生き方』という映画のことを知って、ずっと観たいなぁ~と思っていました。いつもサイトをチェックしていたのですが、上映会は、あったとしても地方で、また、情報が去年の9月で止まってしまっていました。もう見ることはできないのかなぁ・・・と半ば諦めていました。
それが一昨日、何を思ったか、なにげなく、
ウェブ検索にこの映画の名前をもう一度かけてみました。
なんの期待もせずに・・・。
そしたら今まで見ていたのとは別の公式サイトが出てきて・・・。
「あれっ・・・!?」、と。
そしてそのサイトの上映会情報が載っているところをクリックすると、なんと明日、東京の北参道で上映会があるとのことで、またびっくり!どうやら私はこれまで、古い情報が載っている別のサイトを見ていたようで、またそれだけが唯一のサイトだとずっと信じて疑っていませんでした。ずっと観たいと望んでいたことが思いかけず叶ってしまって、なんだかちょっと拍子抜けしちゃいました・・・![]()
ちなみに上映会場には木村さんのりんごが飾られてありました。
2年経つものだそうですが、腐らず、本当に枯れていました。木村さんの枯れたりんごを手にした私は、『うわさはかねがね聞いていました。はじめまして。』という気持ちになりました![]()
『降りてゆく生き方』を観ながら、昨日の今日までこの映画を観る機会に恵まれなかったことも、なんだか妙に納得できました。つまり、今このタイミングで観るのがベストだったなぁ、と。今だからこそ心身にしみる映画でした。
実は、この作品のタイトルの“降りてゆく生き方”という意味が、私にはずっと分かりませんでした。作品のことを知ったときからずっとその意味を考えてきたけれど、私には全く理解できませんでした。
降りるってどこから降りることなんだろう・・・?
下りるじゃなくて、降りる・・・?
降りていってどうするわけ???
人生は登るものなんじゃないの???
頑張って登った先に求めている何かがあるんじゃないの???
・・・・と。
そして今、この映画を知って半年以上経つのですが、
ようやくその意味が分かるようになりました。
それは、実感からくる“分かる”に変わっていました。
この半年間、自分は何もしていないようで、ちゃんと何かをしてたんだなぁ。
私は仕事をやめ、英語病(英語を勉強したくて仕方なくなる)にまたとり憑かれ、寝る間も惜しんで英語の勉強に励むと、今度はそれを生かしたいと、また外資系企業でバリバリ働いてがっつり稼ごうかな、と考え始め、もうすぐ内定というところでなぜだか急に自分のしていることが、馬鹿馬鹿しく、何をやってるのかと滑稽に思えて話を破談にし、そしてまた無職の、お金もない、なんでもない人になりました。
世間からしたら落伍者そのものなのですが、
その落伍者はこの半年間、
なんとも神聖な時間を過ごしていたのでした・・・。
幸せ者の落伍者は、てっぺんのない山を登っていたことに気付き、そもそも登る必要も、登る山もなかったことにも気付き、山を登ってどこに行こうとしていたのかも分からなくなり、架空の山を下山することを決めたのでした。それは下りることであり・・・降りることでもあり・・・。
映画を観た帰り道、なんだかすごく、地に足がついているという感覚が全身に走りました。私は今まで、頑張って仕事して、お金をちゃんと稼いで、しっかり食べていける技術とキャリアを身につけてこそ、地に足がつくのだと思っていました。だから、地に足がつくなどということは、はみ出し者の私には縁もゆかりもないことだと思っていました。
それなのに、今、なんでもない今の自分に、
生まれて初めて現れた“地に足がつく”という感覚。
意外なものの現れではありましたが、
でも本当はこういうことなのかもしれません。
だって、やっと降りることにしたから・・・。
登ることをやめて、地面の土肌が少し見えてきました。
あぁ、全てに意味があって“ナサレテイル”んだなぁ。
そして一本の線でつながっていて・・・。
北参道の駅で一人、畏敬の念のような、
圧倒されるようななにかを感じながら歩いていました。
一昨日、この上映会があることを知る前のことですが、朝から妙に新宿に行きたくて仕方ない衝動にかられました。新宿なんて人が多くて、空気が悪くて、普段なら決して行きたくないのに。それなのになぜか一昨日の朝は新宿に対して、何ともいえない焦げ付くような感情を覚えて・・・。結局一昨日は新宿に出かけることはなかったのですが、ずっと新宿のことが気にかかっていました。
『降りてゆく生き方』の上映会は北参道でありました。
北参道は副都心線の駅です。私は昨日初めて副都心線に乗りました。東京に暮らしていながら(湘南から引っ越しました)、東京の土地や沿線にとんでもなく疎い私は、北参道という名前も初めて聞いたし、どこにあるのかもよく分からなかったのですが、北参道の隣りって新宿三丁目だったんですね。北参道の駅に着いて気付きました。思いがけず、一昨日思っていた新宿近くに行けたわけです。
私はこじつけが好きではないけれど、
こういうことって本当にあるのかもなぁ、と昨日は思いました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
自分も間違うし、人も間違う。
自分も人を傷付けるし、人も誰かを傷付ける。
自分も許されたくて、人も許されたい。
自分も謝りたくて、人も謝りたい。
誰にでも“あの日の後悔”がある。
だから私も、もう人を許そうと思う。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
穏やかな大きな海の水面に、
正方形の小さな木枠が一つ漂うように浮かんでいた
それは無垢で素朴なただの木枠で、
ぷかりぷかりと気持ち良さそうに浮いている
その様子を眺めていると、
海には無数の木枠が浮いていることに気がついた
様々な形や色をした木枠で、
同じようにぷかりぷかりと浮いて漂っていた
昨日、寝起きの頭にそんなイメージが思い浮かびました。
なんだかとても象徴的なものに見えましたので、
今日はそのことについて書きたいと思います。
私がこれまで“私”だと思っていたのは、
この木枠のようなものだったんじゃないかな、と思います。
だけど本当の私は、木枠でも、木枠の内側の空間でもなくて、
それが身を委ねて浮かんでいる大海そのものだったんだな、って。
海は広く、どこまでも遠く続いていてます。
そしてそれは沢山のほかの木枠達と共有しています。
木枠の内側から自分を眺めていたら、全ては分離していて、
いつ牙をむくか分からない恐ろしい海を漂流しているようにしか見えません。
それに、どこへ流されていっているのかも分かりません。
だけど、思い切って木枠の外側に飛び出してみると、
なーんだ、自分はその恐れをなしていたはずの海だったじゃないか、と。
木枠はただそこに浮いていただけで、枠の内側は海。
それに他の木枠達の本当の姿も同じで、
私たちはどこもかしこも途切れなく繋がっていたんじゃないか、と。
私たちは単に木枠を持っているだけで、
それそのものじゃなかったんだなぁ、と思いました。
大きな海を色んな額縁に当てはめてみているのが、この世界なのかも。
無数の木枠達はそれぞれ色んな形をしているんだろうなぁ。
何重にも大きさの違う木枠を組み合わせて、
内側の海が見えなくなってしまっているものもあれば、
ボロボロで今にも枠が枠じゃなくなってしまいそうなもの。
もはやただの一つの木片でしかなくなってしまったもの。
みんな木枠や木片にしがみついたり、
しがみつかなくて済むように立派に頑丈に作り変えたりして、
この世界を生きているんじゃないかなぁ。
大きな海が神様を表しているのなら、
自分がどんな木枠、額縁に収まっているとしても、
自分達の本質は神様は神様。
どれだけ良いとされていることをしている人でも、
どれだけ悪いとされていることをしている人でも、全部おんなじ。
水のように全部入り混じって、溶け合って、一体となっていて・・・。
神様は色んな木枠に入ってそれを楽しんでいるのかも。
神様が全能であるならば、
良いも悪いも、相反するものも全部知っているんじゃなかろうか。
究極的には悪いことなんて何一つなくて、
全ては善へと転じるためのジャンプ台に過ぎないとか。
私はあなたで、あなたは私。
で、みんな本当はこの大きな海であって、神様で。
動物も、自然も、有機物も、無機物もみんな。
地球も、太陽も、月も、他の星も、宇宙もみーんな。
だけど、まだ私はこの大きな海に潜り込めてないけれど。
木枠の端っこに立って、
『ほほぅっ!!みんな同じ海だったんじゃん!』
ってことがやっと分かったけれども、
まだ海の中にドボンと潜ってそこを泳いではいません。
カナヅチなので、溺れるのがこわいんです。
でもきっと潜る勇気と準備ができたときに、
また新しい何かが開けるんだろうなぁ、と楽しみにしています。
本当は狭い枠の中に閉じこもってなくても良いんだなぁ・・・![]()
今日のおまけ↓
お掃除を始めるお手伝いをしているのかな?かわいい~![]()
そして音楽が絶妙!(笑)
わんこの“もふもふ”している感じもたまりません。
この子はもふもふの「木枠」を選んで生まれてきたんだな~。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
動物が大好きです![]()
これ↓、ワンコからしたらいい迷惑だろうけど、
たまらなくかわいい・・・![]()
先日、実家で飼っていたワンコの一周忌を迎えました。
毎日思い出すし、会いたいなぁ、とは思うけれど、
亡くなってしまったことへの悲しみは自然と癒えていきました。
今思い出すのは、生前の愛らしい姿と、
私たち家族をお腹の底から笑わせてくれた爆笑珍場面とかです(笑)。
人間となんら変わらない、
かわいくてひょうきんな年の離れた妹でした。
気まぐれでマイペースな性格も、漂わせる雰囲気までも私に似ていて、
家族が愛犬の前で呼ぶ私の名前は『ゆこ姉ちゃん』だったほど![]()
動物ってなんて尊い存在なんだろう・・・。
一緒に暮らしているとそんな風に感じることが沢山ありました。
亡くなったばかりで私が打ちひしがれていたときも、
愛犬は夢に出てきて励ましてくれたことがありました。
(落ち込む私を見かねて、出てきてくれたのだと信じています。)
その夢は、愛犬がダンボのように垂れ耳をパタパタさせながら、
玄関の外へと勢いよく飛び出していき、
家の周りを気持ちよさそうに飛び回っているというものでした。
そして、
『ほら見て!もうどっこも痛くないよ!
どこにでも自由に飛んで行けるし、今すっごく楽しいよ!
あたしは元気に楽しくやってるからもう心配しないで!』
というメッセージが私の心の中に入ってきたのでした。
その夢を見た日をさかいに、悲しみが癒えていきました。
愛犬の魂は永遠で、それは決して死ぬことはないんだと知りました。
今日もどこかで楽しく暮らしていることでしょう![]()
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ある日“お金のいらない国”にワープしちゃったら・・・。
お金のいらない国(落語)1-1
“お金のいらない国”には結婚や制度もないそうです。
お金のいらない国2(落語)2-1
お金のない国のおじさんが、こちらの世界に遊びにきたバージョンもあります。
続きはYouTubeで検索してご覧ください(ペコリ)。
“お金のいらない国”で検索すると出て来ます。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
子供の頃、ジャンピングキャップで遊びませんでしたか?
ジャンピングキャップは、弾力性のあるちょっと硬めのゴムみたいな素材で出来ていて、ドーム状の形をしています。それを指でペロッと裏返して床に置いて少し経つと、裏返っていたのが“ペ・・・・ッタンッ!”という音を立てながらピョーーーンッと飛び跳ねて、元の裏返っていない状態に戻っていくという玩具です。
駄菓子屋によく売っていました。
素朴な作りの玩具ではありましたが、子供の頃の私は飽きもせずに、
何度もペ・・・ッタン、ペ・・・ッタンして遊んでいました。
今も駄菓子屋行けば売っているのかな~。
実は何故だか急にこのジャンピングキャップのことを思い出して。
そして、そうこう思い出しているうちに、
ジャンピングキャップって私の生き方みたいだな、と思ったわけです。
本来の形から違う形になるべく、力を加える生き方です。
アセンションとか次元上昇とかについて最近巷でよく言われています。
私はそれに関する本を読んだりしたことがないので、あまり詳しいことは分かりませんが、でもそれってもしかしたら、ジャンピングキャップみたいに“裏返っていたものが裏返る”ことなんじゃないかな、と思ったんです。目覚めとか、悟りとかいうのも単に裏返しになっていたことが戻ることなんじゃないかな、と。
この間ふと思ったことをブログに書きました。
『苦しみ上等。』というタイトルのブログです。
苦しさの分だけ、
その裏に喜びの世界が生まれ出ているという内容の記事でした。
その記事の内容と、ジャンピングキャップの遊びが面白い感じに頭の中で結びついたので、今日はそのことについて書こうと思います。
ジャンピングキャップは、それに加えられた抵抗の力(裏返すのに加えられた力)が強ければ強いほど、その抵抗が外れた時に高く上に向かって跳びます。ほんのちょっとペロッと裏返しただけでは、ちょびっとしか跳びません。跳ばない以前にそれを床に設置するのも困難です。すぐに裏返しているのが元に戻ってしまうからです。
人の人生もジャンピングキャップの遊び方と似ていて、
苦しさMAXの状態まで行くと(限界まで裏返すと)、
あとは跳んで元に戻るしかなくなるような気がします。
まるでそれは“生命のセーフティーネット”があるかのよう。
ある程度行くとこまで行っちゃうと、
ビヨーーーーンッて元に戻る仕組みになっているような気がします。
実は私は過去に二度、
そのセーフティーネットのような存在を感じたことがあって・・・。
昔は、『人生の底にはトランポリンが用意されている』と表現していました。本当にそのような感じがしたからそう呼んでいました。苦しんで苦しんで悩みぬいて、だけどどうにもこうにも苦しさから逃れられなくて、それでもうそんな状態にぐったり疲れきって考えることすらできなくなった時に、なぜかピョーーーンッと突然跳んだように答えがポンッと頭に入ってきて楽になったという体験です。不思議でした。ちょっぴしグラン・ジュテ(跳躍という意味らしいです)した感じです(←NHK結構好きで・・・)。
抵抗の力が大きかった分だけ、跳躍する力も大きくなるわけで、それに伴って、
跳躍先や、抵抗からの解放感とその喜びみたいなのも違ってくるし、
また、抵抗する力に比例してそれらは増減するんじゃないかな、とも思います。
もし生命が本当にジャンピングキャップみたいなものだとしたら―。
愛も恐れも喜びも悲しみも全部表裏一体で、
相反する“それ”があるからこそ描ける何かがあるのもしれない・・・。
愛を縁どる恐れがあって、恐れを縁どる愛があって・・・。
遺伝子の二重らせん構造図みたいに、
逆向きに並んだ2つの鎖が美しく織り成されてて・・・。
恐れと愛は逆向きなだけで実は同じものなのか・・・?
人生は壮大な生命のジャンピングキャップ遊びだったりして・・・。
そんな風に今日は思ったわけです。
ジャンピングする必要のない、
ただの“キャップ”であることを完全に思い出す日を夢見ながら。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
脳科学者ジル・ボルト・テイラーさんのTEDプレゼンテーションです。
自身の脳卒中体験について語られています。
(30日にNHKで再放送するようです。)
思考が止んだとき人はどうなるのか。
とても興味深い内容です。
脳科学者が体験した“いまここ・ワンネス”の世界とは―。
ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」1/2
ジルさんの著書です↓
まだ読んでないけど、面白そうです![]()
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
エックハルト自伝 1/7
全7話です。
残りの6話は多分この動画を見終わった後に表示されると思いますので、
そちらをクリックして続きをご覧下さいm(_ _)m
エックハルトさんの著書『ニュー・アース』。
私の大切な一冊です![]()
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
苦しむことって悪いことじゃないと思うんです。
まぁ、苦しみたくはないですけどね。
でもある日ふと心に浮かんできたのは、
『苦しんでいる分だけ、その裏っかわに喜びが生まれている』という感覚。
“喜びの感覚が生まれている”っていうか。
真夏の暑い日に一切の飲み物を我慢して我慢して我慢したところで、
最後にキンキンに冷えたビールがやっと飲める喜び、みたいな。
例えが下手ですが・・・。
喜びを知るためには、
苦しみも知る必要が実はあるような気がするんです。
これはすごくありきたりな話ではあるけれど、
すごく当たり前な話な気がしてて。
苦しむことは実は喜びと対峙することというか。
Aさんが自分の本当の姿を見るには(鏡とか使うの無しで)、
AさんがBさんとかCさんとかDさんとかの別の人になって、
Aさんを眺めるしかないっていうか・・・。
また例えが下手だけども・・・。
あと、最近『苦しいことの何が苦しいのか?』っていうことも疑問に思って、
色々と自分の心の中を観察してみました。
それで分かったのが、
苦しい気持ち(不安、悲しみ、怒り、嫉妬など)を押し込めようとすると、
苦しさを余計に(?)感じることになる、ということ。
不安なら不安でいいのに(あえて不安なままでいいのに、とは言いません)、
不安を感じている自分をどこかで否定してかき消そうとする時に、
ものすごく苦しさを感じていることに気付きました。
“火消し”に躍起になると苦しいみたいです。私の場合。
不安なうえに、その不安の炎を消さなきゃ消さなきゃって焦って、
でもなかなか消えてくれないから余計に焦って苦しいことになる、みたいな。
火消しはそんな成功しないし、
ちょっと消えたとしても不安という燃えカスは残るしで、
無理に消火活動してもあんまり意味はないような気がしてきたんです。
だから不安を感じたなら、
不安と共にとりあえず少し一緒にいてみるのでいいのかな、って。
かき消そうと躍起にならない限り、
実はそんなに不安って苦しいものでもないのかな、と。
あと、休止活動中セラピストとしてすごく思うのが、
不安などを感じているときの体の反応。
少し前にも体と感情について書いたけれども、
その後もそのことについて考えることは続いています。
私は不安を感じると、
喉の筋肉がきゅーっと締め付けられるように苦しくなります。
あとはみぞおちのあたりも締め付けれるときもあります。
後頭部が痛くなるときもありますね。首筋が張ったりとかも。
でも思うんです。
この喉が締め付けれる感覚が全くなかったら、
不安って辛いことなのかな?って。
体がリラックスしている状態で不安って起こりえるのかな?とか、
もしそれが可能なら、
不安そのものの感覚ってどういう感じなんだろう?とか、
いや、そもそも体が無反応なら不安に感覚もなにもないのかな?とか、
色々と考えてみました。
その答えは・・・
まだよく分からないです。
観察を続けてみます。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント